〈対話〉を意識した授業
先日、勤務する中学校で研究報告会があった。
令和2年4月から完全実施になる中学校学習指導要領の中で重視されている「主体的・対話的で深い学び」に絡めて研究テーマの設定や報告会の枠組みが決まっていた。
今回研究報告会を終えてみて、〈対話〉ってみんなわかったようになって適当に使ってるけど、
そもそも「主体的・対話的で深い学び」の中の〈対話〉って何なのさ、
って議論は全く学校内でなされていなかったのが問題点だと思った。
「何となく、これって〈対話〉じゃね!?」くらいの軽くて適当で曖昧な認識のもとに授業が行われて、
研究という名の下に適当なアンケートが作られて、生徒に力がついたように思い込もうとしている…という何とも残念な、
そして労力だけがかかった会が催されたように思う。
生徒同士がわいわいしゃべってたら〈対話〉、ではないと思う。
〈対話〉って、私のイメージではお互いの本音をぶつけ合うことで、お互いの中に何かしらの「変容」が生じる活動。
だから、「発表したらOK」でもないし、「発言できるやつがすごい」のでもない。
たしかに、大勢の前で発言できるのは〈対話〉のきっかけになる可能性がある。
発信された意見にエネルギーがあって、思いがこもっていて、
聴いている人の心を打つような内容であれば、そこに〈対話〉は成立する。
じゃあ、〈対話〉ができる授業はどうしたらできるかって考えたら、
①自分の意見を安心して発言できる場であること
②題材に力があること かなと。
あ、②の題材に力があることだけでも〈対話〉的な学びは成立する気もしてきた。
だって、読書とか動画の視聴でも心を動かされて自分の意見や考えが変わることあるし。
アクティブラーニングが流行った時にいわれた
「活動あって学びなし」だかなんだかっていう言葉と一緒で、
〈対話〉させているようで表層的な話しかしてないっていう状況が日本各地で生まれてる気がする。
なんとなく〈対話〉ってのを重視した弊害で、
本来なら基礎学力の定着に当てられていた時間が削られたり、無理やり話し合い活動させられて
肩身の狭い思いをしている子がいませんように。