日常つぶやきブログ

誰かの役にたつわけでもなく、何かの知識が得られるわけでもありません。自分が日々感じたこと、考えたことをまとめる場所、記録しておく場所としてブログを始めました。

よくわからないものと付き合う

この外出自粛期間に、お茶のお稽古を家でやりはじめた。

 

【茶道】とは、全然縁がなく生活をしていたのだけど、

 

3年半くらい前から、2ヶ月に1回くらいのペースでお茶のお稽古?お茶会?くらいの

 

ゆる〜い集まりに参加している。

 

最初は、「巻き込まれキャンペーン」と称して、何にでも参加してみようくらいの気だったから、

 

別に特段茶道に興味があったわけじゃない。

 

声をかけてもらったし、お菓子美味しいし、何だか「私、日本文化に触れてます」感が心地よかったくらい。

 

ちなみに、今も全然レベルアップはしてなくて、

 

その気になったやる気のある人には

 

きっと1ヶ月やそこらですぐに追い抜かれるくらいの知識や技術だ。

 

そうなんだけど、何だかよくわからなくても、継続してそれに接し続けると、

 

知らないうちに親しみが持ててきて、急に「え、もっと知りたくなったんだけど!!」という

 

ブレイクスルー的なものが生まれる気がしてきた。

 

例えば、お茶碗。

 

毎回お茶をいただいた後には「拝見」をするんだけど、最初は周りの人が「土がいいねぇ」とか、

 

「〇〇さんのか」とか、「この季節になるとこのお茶碗が見られていいわね」とかいうのが、全然わからなかった。

 

「ほぅ、お茶を楽しむというのには、よくわからんけど茶碗をながめて褒め合うのが必要なのか」と思ったくらい。

 

なんだけど、なんか、私も何年か経って、いろんなお茶碗を見せてもらってたら、

 

美しい、手触りのいいお茶碗というのがなんとなくわかってきた。

 

去年の秋には、「樂美術館」にも行きたくなって、「う、美しい・・・。なんじゃこの美しい茶碗!!」と感動した。

 

棗とか茶杓もそう。

 

自宅でお稽古をしたくて、Amazonやメルカリでいろんな商品を見てみたんだけど、

 

どれも同じだろうと思っていたものが、実は全然違くて、その中から自分の好みのものを探すのは楽しかった。

 

なんなら、今日は「茶道BOOK」なんて読んでいる。

 

何だか不思議な気分。

 

その辺にポイって適当に巻いて、時々思い出した時にちょちょっと水をあげていたくらいのタネが、

 

今、このタイミングで目を出してぐんぐん成長している感じ。

 

私は気まぐれだから、多分この「お茶、やるでぇぇぇ!」という情熱はあまり長くは続かなくて、

 

せいぜいあと1〜2週間したらまたしばらくのほったらかし期間になる。

 

そうなのだけど、その期間は無駄ではなくて、

 

私の中でうっすらでも付き合い続けていたら、どこかのタイミングでひょこっと顔を出してきてくれる気がする。

 

最近は、わかりやすいものがもてはやされるから、

 

ちょっと試して見て、すぐに効果が見られなかったり、楽しさが実感できなかったりすると、

 

それっきりになってしまうことが多い気がする。

 

だけど、そんな付き合いばっかりだと、何だか心にゆとりがないというか、

 

次から次へと追い立てられるような生活になってしまうのではないかと思う。

 

何だかよくわからないけど、とりあえず付き合ってみるという姿勢、

 

この慌ただしい時代の1つの処世術になるのではないかなぁ。

【絵本】「なんだろう なんだろう」

さっきの記事に続いてもう一冊絵本。

 

ヨシタケシンスケさんの「なんだろう なんだろう」

 

https://www.mitsumura-tosho.co.jp/shohin/ehon/book_eh001.html

 

これは、何度もゆっくり、落ち着いた気持ちで向き合いたい本。

 

なんだろう なんだろう 「がっこう」って なんだろう

 

という問いかけから始まって、

 

「たのしい」ってなんだろう

 

「うそ」ってなんだろう

 

「友だち」ってなんだろう

 

「しあわせ」ってなんだろう

 

「自分」ってなんだろう

 

「正義」ってなんだろう

 

「ゆるす」ってなんだろう

 

「自立」ってなんだろう

 

「立場」ってなんだろう

 

「ふつう」ってなんだろう

 

「夢」ってなんだろう

 

というたくさんの問いが、かわいらしいイラストと一緒に投げかけられる。

 

どの問いも、本来すごく深いテーマで、

 

1つのテーマに絞って考えたとしても、しばらく議論ができそうな問い。

 

そんなテーマを、優しく、子どもたちが何気なく考えられるように提示してくれている本。

 

「こんな考えもあるよね」「いや、こうも考えられないかな?」

 

というたくさんの意見を、決して押し付けることなくそっと並べておいてくれる

 

温かさを感じられる。

 

「これが正しい答えだから、この通り生きなさい!!」という息苦しさがなくて、

 

「いろんな人の意見を聞くのがいいのよ!!耳を傾けなさい!!」という説教くささもない、

 

なんとも読んでいて心地の良い絵本だった。

 

この絵本を使って子どもたちと話をしたら、

 

一体あの子たちはどんな答えを持つのだろう。

 

私は、どう子どもたちに自分の考えを伝えよう。

 

そんなワクワクした気持ちと、温かな気持ちにさせてくれた本。

 

これもたくさんの人に読んで欲しいなぁ。

【絵本】「ころべばいいのに」

今日は絵本の紹介。

 

ヨシタケシンスケさんの「ころべばいいのに」を読んだ。

 

https://www.bronze.co.jp/books/post-179/

 

この本との出会いは確か3月の半ば。1ヶ月半くらい前。

 

コロナが流行り出して、外出は控えた方がいいよって言われ始めたころだったけど、

 

まだ私はコロナへの認識が甘く、(そして世間もそんな感じだった)

 

フラフラ街のカフェに繰り出したり、お散歩で街中をふらふらしてた。

 

そんな時に、ふらりと初めて入った本屋さんで見つけた本。

 

その本屋さんは、〈ザ・昔ながらの地域の本屋さん〉って感じで、

 

子ども向けの本とか、多分店主のおじいちゃんが好きなんだろうなっていうミステリー系の本が置いてあった。

 

決して品揃えはいいわけじゃないんだけど、その中で絵本を2冊買った。

 

1冊がこの「ころべばいいのに」。

 

もう1冊が「なんだろう なんだろう」。

 

どちらもヨシタケシンスケさんの絵本。

 

ヨシタケさんの本は買ったことはなかったけど、

 

何だかヨシタケさんのことは知っていて、

NHKの番組に出てたから?でも、その前から何でか知ってる。)

 

ふと手に取りたくなった不思議な本。

 

実は、何だかおこがましい話だけど、私がこの本を買うことで、

 

この本屋さんがこれからもお商売を続けられますように!!なんて、思ったりもした。

 

おじいちゃん、クレジットカード払いはできないんだ、ごめんねって言ってくれて、

 

クレジットカード払いにすると、ただでさえ少ない利益がもっとなくなっちゃうんだって言ってたし。

 

さて、そんなこんなでルンルン気分で買ったはいいものの、

 

私あるあるで、買って満足してしまい、ずーっとベッドの脇に積んであったこの絵本。

 

つい2日前くらいに、何だか「今よ!!」と呼ばれてる気がして読んでみた。

 

ここ最近、コロナに関する周囲との感覚の違い、仕事に対する違和感、イライラを感じることがたくさんあったんだけど、

 

そんなふつふつとした、自分のイヤな部分、ぐちゃっとした、もやもやっとしたものを、

 

ふっと、そっと、上澄みを掬い取るっていうか、お鍋の中のアクを、気付いたら取ってもらっていた感覚というか、

 

「そんな気持ちもあるわよね〜」「みんな、そんな気持ち、抱えてるわよね〜〜〜」「ケセラセラ〜」という、

 

そんな軽い感じで受け止め、気付いたら受け流してくれてもらったような気持ちになった。

 

お話の主人公は女の子で、女の子にはキライな人がいる。

 

その女の子がキライな人に対して思う、「ころべばいいのに」っていうちょっとダークな気持ちとか、

 

そんな相手に対して浮かんでくるイライラした気持ち、

 

その気持ちとどう付き合っていくかっていうのが描かれているんだけど、

 

これがまた、「あるある!」「わかる〜〜〜!!」という共感の気持ちでいっぱいになる。

 

つい、「みんな仲良くしよう」っていう耳障りのいい、〈誰もが反論しにくい〉言葉が世の中にはあふれているんだけど、

 

きっと心の中でたくさんの人が思っているであろう、

 

「キライな人もいるよね。」「キライな人がいてもいいよね」っていう気持ちを代弁してくれてる本。

 

こんな考え方もあるのねって思えたら、人間関係で悩んでいる人たちにちょっとした心の余裕が生まれるんじゃないかなって思った。

 

コロナでギスギスしがちな今、たくさんの人にオススメしたい本。

 

 

 

 

 

長期休校から感じる学校の機能

3月の初めからすでに約2ヶ月、休校が続いている。

 

もう2ヶ月か、とも思うし、まだ2ヶ月か、とも思う。

 

これからもまだまだ休校は続くだろう。

 

少なくとも、いくつかの自治体はすでに5月末までの休校を決定した。

 

正直、学校が休校でも、子どもたちはそれなりに楽しく生活しているようだ。

 

こんなに長いこと学校がないと、学校って本来、そしてこれから、何しに来るんだろうと疑問に思った。

 

「学校は勉強するとこやろ。」

 

そうなんだ。そうなんだけど…。

 

現状、いわゆる「勉強」に対して学校が休校中にできていることって、あまりにも少ない。

 

私の勤めている公立の中学校では、今までに履修した範囲の復習プリントを大量に各教科で印刷して、

 

担任が各家庭に届けに行き、登校日に回収してるだけ…。

 

あまりにも休校が長引いてるものだから、最近は文科省が特別に「休校中の課題で未履修範囲も出していいよ!」と

 

通達を出したし、教科書に沿って学習できるような課題も出していいよってなったけど…。

 

自治体として、テレビで授業っぽいことを流したり、学習プリントのサイトの紹介をしたりはしてるけど、

 

生徒1人1人の学習の状況を把握して、フォローアップできているとはとても言えない。

 

でも、勉強している子はいるだろう。どうやって?

 

塾で。動画で。通信教材で…。

 

だって、生き残りに必死な企業は、対面が無理ならすぐに別の方法で教育を提供しようとするもの。

 

子どもの学習権を保障しようという志のある人たちが、学びのためのコンテンツを立ち上げるもの…。

 

その結果生まれるのは、「え、教科書の内容理解するなら、学校より塾・動画のがわかりやすくね?」という気づきと、

 

親が教育熱心でそういうサイトにたどり着けて、子どもに勉強する環境を提供できる家庭の子・勉強が好きで、勝手に勉強する子と、

 

そうでない子の学習にものすごく差が広がっていく。

 

強いものはより強く。

 

弱いものは知らないうちに、より弱くなっていく。

 

そんな構造が生まれる。

 

そう思ったら、今、学校ができるのって、勉強を教えるっていうより、「格差を広げないための福祉的な役割」なんじゃないかと思う。

 

誰かが、学校の「福祉的機能」と言っていた。

 

そうか、学校は福祉の役割を果たさねばならんのだと、すっと腑に落ちた。

 

あと、もし残るとしたら子ども同士をつなげる「場」としての機能が残るかな。

 

いろいろな人がいることを知識として知るだけではなく、

 

「肌で感じる」、「身をもって知る」という場。

 

ネットが発達して、今はリアルな出会いだけじゃなくて、

 

自分で自分が繋がりたい人と繋がることができるようになった。

 

でも、それは「いろいろな人がいる」という前提で、

 

選択肢がたくさんあることを知っているから選べる。

 

だから、学校で、いろんな家庭の、いろんな考え方の子どもが出会うのは必要だと思う。

 

まぁ、地域のクラブ活動なんかが盛んなら、これもマストではないんだけど。

 

ここまでダラダラ書いてみて、

 

やっぱり学校の機能って、本当はすごく限定的なんだと思う。

 

だから、教師の視点で言えば、そんなに「学校が頑張らなきゃ!」と思う必要はなくて、

 

(というか、今まで「学校ってスバラシイ所よ!子どもがカガヤク所よ!」「私たちが生徒の心の拠り所!」と

 頑張りすぎて、気負いすぎて、空回り、というか、自滅していた)

 

全ての子どもに等しく教育を受ける権利を保障することに立ち返ればいい。

 

余計なことはしなくていい。

 

というか、余計なことは子どもの時間を奪うだけだと早く気付いた方がいい。

 

子どもの視点で言えば、極論、学校なんて来なくても(来られないにしても、来ないにしても)

 

全然生きていける。

 

だから、もし学校に行きたくないって思ったり、行かなくてもいいやって思ったら、

 

無理して行かなくてもいい。

 

学ぶことは必要だから、学校に行かないのなら、自分なりに学ぶ方法は見つける必要はあるけど。

 

とりとめもなくまとまりのない文章になってしまった。

 

今日はこれで終わり。

 

 

【映画】マンデラの名もなき看守

映画の感想第2弾。

 

マンデラの名もなき看守

 

マンデラは、南アフリカの黒人解放運動家で、1994年から1999年まで南アフリカ大統領を務めた人。

アフリカ民族会議(ANC)に参加して反アパルトヘイト運動をしたことで、27年間獄中生活を送った。

この映画は、その獄中生活に関わった刑務官が主人公の話。

 

と言う情報は、恥ずかしながら映画を見終わって、

今この記事を書くために高校生の時の世界史の資料集と用語集を引っ張り出してきて初めて知った。

 

何となく、「マンデラ」と言う人の名前は知っていて、

 

ふむ、なんか世界史で聞いたかも!

 

と言う認識はあった。

 

でも、映画の中でアパルトヘイト(人種隔離政策)の様子が描かれて、マンデラがなんかすごくいいこと

 

(我々はただ平等に選挙権が欲しいのだ!とか、好き好んで暴力に訴えているのではないのだ!とか)

 

を言う中で、「おや?この人すごい人じゃね!?」となり、映画のクライマックスでこの人が大統領に就任したことを知る。

 

…あまりにも自分は無知だと思った。

 

そりゃ、「あ、アパルトヘイトって政策あったよね」「白人が黒人を差別してたあれでしょ!」くらいの認識はあったけど、

 

実際、どんな仕打ちがされていたとか、どんな言葉が投げつけられていたかとか、

 

そんなことまで自分は想像できていなかったことを思い知らされた。

 

差別って怖い。

 

同じ人間のはずなのに、どうしてあんなに相手を酷く扱えるのだろうと思った。

 

もちろん、映画だからある程度の脚色はされているんだけど、

 

それにしても、目を覆いたくなるような場面はあった。

 

子どもを連れた黒人の母親が、問答無用で白人警察に追いかけられ、収容される場面。

 

刑務所で反抗した黒人が、柱に縛り付けられて雨に打たれている場面。

 

体をムチで叩かれながら労働を強いられる場面…。

 

そして、その描かれた場面が、1962年から1990年(マンデラが投獄されていた27年間)という、

 

非常に最近起こっていたという事実。

 

「黒人は野蛮」だから、というのが、この時の常識だったのだろうと思う。

 

きっと、疑問を持つ人もいただろうけど、

 

世間の空気に逆らってまで声を上げる人は少数だったんだろうな。

 

この記事を書きながら、イスラム国のことを思い出した。

 

あの件についても、私は詳しく知らない。(知らなきゃダメだけど。)

 

だけど、きっと構造は似ていて、

 

テロを起こしている人たちの中には、何かしらの主張があって、

 

それが、通常の交渉では聞き入れられないから、あんな行動に走ったのではないか。

 

もちろん、なんかよくわからないけど参加してる人もいるかもしれない。

 

だけど、安易に「あの組織はテロリストだ!!だから攻撃してもいいのだ!平和のために!」とかいうのは怖い。

 

差別は、昔の話なんかじゃない。今も、いろんなところで、同じように繰り返されている。

 

「それって本当?」「何でそう言い切れるの?」と問い続ける姿勢を、多くの人が持てたらいいな。

 

情報の選別。自分で考える力。差別に対してどんな時でもNOと言える心。

 

大事にしようと思う。

 

いい映画。

 

 

自分の意見を主張することはKYなのか

コロナの流行は、リトマス紙みたい。

 

「なんとなく空気に流されている人」と、「確かな情報に基づいて行動できる人」。

 

違いがはっきりしてる。

 

緊急事態宣言が出されたのに、なぜ家庭訪問に行く必要があるのか。

 

緊急事態宣言の目的は、人との接触を極力減らすことなのに、わざわざ会いにいったら逆効果。

 

出勤だって、特段するべきことがないのだから、するべきでない。

 

暇つぶしのように、周りに人がいる安心感のために、職員室にいる(ように見える)人たち。

 

人との距離なんて気にせず、普通に不要不急な会話をダラダラしている。

 

来週には、30人もの教師がわざわざ集まって職員会議がある。

 

なぜこの状況で、普段の慣習を変えられないのか。

 

テレビ会議を提案した。

 

結局、体育館での会議になった。

 

それはいい。

 

とりあえず、狭い部屋での感染のリスクはちょっと減ったから。

 

ただ、提案に対して、「あまり先行して、目立った動きをしない方がいい」と言われたのに腹が立つ。

 

そんな動きをよく思わない人がいるからと。

 

それ・・・?理由はそんな人間関係のこと・・・?

 

違うやん。

 

今すべきは、コロナの感染拡大を少しでも遅らせること。

 

医療崩壊を起こさないように、1人1人が接触を最小限にするという、自分にできることを一生懸命することではないのか。

 

きっと、自分の学校は大丈夫、と、根拠のない自信があるんでしょう。

 

だれか、身の回りの大事な人たちが感染したとき、やっと気づくんでしょう。

 

「気をつけないと、発言しにくくなる」というありがたい忠告をいただいた。

 

自分の意見を主張して、何がいけないのだろう。

 

命を守るために、おかしいと思うことに声をあげることが、なぜ非難されるのか。

 

「今は非常時なので、必要だと思うことを発言している。それで疎ましく思われても、1人でも考えが変わってくれたらそれでいい」と

 

言い返した。

 

多分伝わっていない。

 

合理的な話より、なんとなくの空気が重んじられる。

 

まぁまぁ、大人になりなよって、みんなで仲良くやろうよって言われる。

 

その「大人」って、空気を読んで、なぁなぁに、でも、陰で文句を言いながら、うまくやっていくことでしょうか。

 

そんな「大人」に、私はなりたくない。憧れない。

 

多少反発を食らおうと、あいつ、面倒くさいなと思われようと、

 

私は自分の思ったことを、正しいと思えることを表現していく。

 

もう、コロナより前には戻れない。

 

環境も、私の心も。

 

 

 

 

 

 

【映画】ある少年の告白

今日は初めての映画紹介。

 

ある少年の告白

http://www.boy-erased.jp/

 

友だちがおすすめしてて、Amazonプライムで無料で見れたので早速視聴。

 

ゲイの男性が、親にそのことが知れて、更生施設のようなところに送り込まれる。

そこでは、自分の性的指向は認められず、〈正常〉に戻ることを強要される。

 

私はLGBTについて特段詳しいわけではないけれど、

これだけLGBTの当事者がいろんなところで声を上げ、多様な性のあり方を伝えているのに、

まだまだ偏見や差別は残っているんだと思った。

 

確かに、残念ながら職場でも「もしかしてあの子ってさ、最近よく聞くLGBTってやつ?」

「え、あれ?そうなんかな?」「よくわからんなぁ、ほんまにいるんやな…」くらいの認識。

知らないなら勉強したらいいのに、と思う。

 

LGBTにしても、障害にしても、きっとマイノリティーとして生きていくのに、

周りの環境がすごく大事。

 

「あなたはおかしい」「普通じゃない」「何とか努力して正常になって」

 

なんて言われ続け、自分を認めて貰えないって、すごくつらいんだと思う。

 

マイノリティーばかりが努力を求められ、辛い思いをするのは違う。

 

当事者の近くにいる人たちが、まずはその人の話をよく聞いて、理解しようとすること。

知らないことは謙虚に学ぶこと。

同じ人間として対等に接すること。

 

こんな当たり前の姿勢が、社会全体に広がることが大事だと思った。

 

自分の持ち場でできることを。