長期休校から感じる学校の機能
3月の初めからすでに約2ヶ月、休校が続いている。
もう2ヶ月か、とも思うし、まだ2ヶ月か、とも思う。
これからもまだまだ休校は続くだろう。
少なくとも、いくつかの自治体はすでに5月末までの休校を決定した。
正直、学校が休校でも、子どもたちはそれなりに楽しく生活しているようだ。
こんなに長いこと学校がないと、学校って本来、そしてこれから、何しに来るんだろうと疑問に思った。
「学校は勉強するとこやろ。」
そうなんだ。そうなんだけど…。
現状、いわゆる「勉強」に対して学校が休校中にできていることって、あまりにも少ない。
私の勤めている公立の中学校では、今までに履修した範囲の復習プリントを大量に各教科で印刷して、
担任が各家庭に届けに行き、登校日に回収してるだけ…。
あまりにも休校が長引いてるものだから、最近は文科省が特別に「休校中の課題で未履修範囲も出していいよ!」と
通達を出したし、教科書に沿って学習できるような課題も出していいよってなったけど…。
自治体として、テレビで授業っぽいことを流したり、学習プリントのサイトの紹介をしたりはしてるけど、
生徒1人1人の学習の状況を把握して、フォローアップできているとはとても言えない。
でも、勉強している子はいるだろう。どうやって?
塾で。動画で。通信教材で…。
だって、生き残りに必死な企業は、対面が無理ならすぐに別の方法で教育を提供しようとするもの。
子どもの学習権を保障しようという志のある人たちが、学びのためのコンテンツを立ち上げるもの…。
その結果生まれるのは、「え、教科書の内容理解するなら、学校より塾・動画のがわかりやすくね?」という気づきと、
親が教育熱心でそういうサイトにたどり着けて、子どもに勉強する環境を提供できる家庭の子・勉強が好きで、勝手に勉強する子と、
そうでない子の学習にものすごく差が広がっていく。
強いものはより強く。
弱いものは知らないうちに、より弱くなっていく。
そんな構造が生まれる。
そう思ったら、今、学校ができるのって、勉強を教えるっていうより、「格差を広げないための福祉的な役割」なんじゃないかと思う。
誰かが、学校の「福祉的機能」と言っていた。
そうか、学校は福祉の役割を果たさねばならんのだと、すっと腑に落ちた。
あと、もし残るとしたら子ども同士をつなげる「場」としての機能が残るかな。
いろいろな人がいることを知識として知るだけではなく、
「肌で感じる」、「身をもって知る」という場。
ネットが発達して、今はリアルな出会いだけじゃなくて、
自分で自分が繋がりたい人と繋がることができるようになった。
でも、それは「いろいろな人がいる」という前提で、
選択肢がたくさんあることを知っているから選べる。
だから、学校で、いろんな家庭の、いろんな考え方の子どもが出会うのは必要だと思う。
まぁ、地域のクラブ活動なんかが盛んなら、これもマストではないんだけど。
ここまでダラダラ書いてみて、
やっぱり学校の機能って、本当はすごく限定的なんだと思う。
だから、教師の視点で言えば、そんなに「学校が頑張らなきゃ!」と思う必要はなくて、
(というか、今まで「学校ってスバラシイ所よ!子どもがカガヤク所よ!」「私たちが生徒の心の拠り所!」と
頑張りすぎて、気負いすぎて、空回り、というか、自滅していた)
全ての子どもに等しく教育を受ける権利を保障することに立ち返ればいい。
余計なことはしなくていい。
というか、余計なことは子どもの時間を奪うだけだと早く気付いた方がいい。
子どもの視点で言えば、極論、学校なんて来なくても(来られないにしても、来ないにしても)
全然生きていける。
だから、もし学校に行きたくないって思ったり、行かなくてもいいやって思ったら、
無理して行かなくてもいい。
学ぶことは必要だから、学校に行かないのなら、自分なりに学ぶ方法は見つける必要はあるけど。
とりとめもなくまとまりのない文章になってしまった。
今日はこれで終わり。