日常つぶやきブログ

誰かの役にたつわけでもなく、何かの知識が得られるわけでもありません。自分が日々感じたこと、考えたことをまとめる場所、記録しておく場所としてブログを始めました。

特別支援学級の立ち位置

この時期はいろんな疑問が浮かんでくる。

 

今日は私の受け持つ特別支援学級の時間割について話し合いがあった。

 

ので、決定事項を伝えられるために3人の担任が呼ばれたのだけど、ちょっと違和感はあった。

 

なんか、特別支援学級の授業に他の先生が来てくれるのはその先生の「ご好意」であって、

 

支援学級の担任は感謝すべき、みたいな空気がある。

 

いや、もちろん感謝はしてますよ。

 

でも、支援学級も立派な1つのクラスなのであって、おまけではないのであって、

 

どうしてそのクラスに「来てもらっている」という感覚にならなきゃいけないのか。

 

「そもそも、特別支援学級の時間割は全て支援学級の担任が受け持つもの」って言うけど、

 

え、それっていつの時代の話ですかって感じ。

 

どこにもそんなの明記されてないし。

 

特別支援学級の先生はその分給料高いんだからって去年言われたけど、

 

それは長時間労働に対する対価ではないよ。

 

教員の専門性に対する対価です。

 

しかも、悔しくて調べたけどさ、月に1万円ちょっとだよ。上乗せされてるの。

 

20日で割ったら、1日500円ですから。

 

授業時数、各クラス3時間。4クラスで12時間。

 

これだけの人がいる中、うちのクラスは余裕で20時間以上持ってるからね。

 

去年、担当時間数を表にして、各教員の負担を可視化して、それを基に授業応援の依頼をしたら怒られた。

 

怒られた意味は未だにわからない。

 

確かに、他の重たい仕事に当たってはいませんよ。

 

文化祭の実行委員長とか、体育祭の実行委員長とか、生徒会とか。

 

でもね、そんだけ空き時間が毎日ないのって、おかしいと思うんだ。

 

3時間空きがある人と、1時間しかない人。ほんで、それを見ても助ける気がない人が多いのは失望した。

 

職員室での雑談?

 

してる暇、ありませんから。

 

学年の取り組みに協力的でない??

 

時間ないし。

 

こちらは学年の仕事になるべく協力するけど、あなたたちは私たちの仕事に協力なんてしてくれませんよね。

 

お互いが気持ちよく働けるようにするには、制度なんかも大事なのかもしれないけど、

 

根本はお互いの気遣いだと思う。

 

モヤモヤはすごく感じるけど、権利だけを声高に主張するのも違うと思うし、ぼちぼち、騙し騙しやろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「合わない人」との違い

この時期は新年度の体制を考えるに当たって、みんなが自分の立場、利益を守ろうとするからギスギスしがち。

 

昨日、新年度の学年配当なんかを決める偉い人たちの会議があったんだけど、

 

なかなか意見がまとまらずに時間がかかっていた…。

 

誰がどこの学年を持つのかって、私の感覚では「子どもの教育にプラスになること」が最優先なんだけど、

 

「この学年主任とこの先生は合わない」とか、「ここの人間関係は微妙だから…」といった話もチラホラ聞こえてきて複雑。

 

私も「この先生の考え方には賛成できない」って人はたくさんいるけど、それってある程度許容しながら働くしかないと思うんだよね。

 

だから、なんとなく「なんでこの人たちとは考えが合わないのだ…」と思ってたら、それは「思考の回路」が違うからだと思った。

 

私がキライな人たちは、何かにつけて「誰にも文句を言われないこと」を目的に議論を進める。

 

だから、文句を言われないように無駄だと思う根回しや回りくどい言い方をする。

 

リスクを取ってでも子どもにプラスになることを…

 

とか、そんな発想は出てこない。

 

だって、一番の目的は「責められないこと」であって、子どものためではないから。

 

そこのゴールが共有できていないから、きっといつも話がかみ合わないんだと気づいた。

 

でも、この感覚の違いは今までの生育歴とか社会人になってからの経験に裏打ちされてるから、

 

すり合わせって難しいのよね。きっと。

 

そう思ったら、価値観の合う人でチームを組んだ方がチームの生産性は上がるのかもしれない…。

 

 

 

共生社会の実現?

クラスの子が下校中に石を投げた。

 

意図的になのか、偶然なのか、石が当たって置いてあったものに傷がついた。

 

結果的に、誰がやったのかがわかったから、ご家庭で弁償することになったんだけど…。

 

モヤモヤがすごい。

 

今回の件、誰も悪くない。

 

石を投げた子は、そこに石があって、「楽しい!」と思って放り投げてしまっただけ。

傷つけてやろうなんていう悪意はない。(本人に意思確認ができないから多分、としか言えないんだけど。)

 

お家の方も、普段からその子へのしつけや教育を怠っているわけではない。

むしろ、人一倍周囲に気を遣って、迷惑がかからないようにとその都度一生懸命その子にやっていいことと悪いことを伝え続けている。

その姿には毎度頭が下がる。

 

石を投げられた地域の方もすごく優しくて、弁償さえしてくれたらそれ以上のことは望みません、って言ってくれて、

その子のこともお家の方のことも、一言も責めなかった。

 

だけど、お家の方が「本当に申し訳ありませんでした」と頭を下げていて、

その後ろに自分がしたことが全くわからず、だけど「すみませんでした」ってセリフを言いに来た子がいて、

私は何をしたらいいのかわからなかった。

 

辛い思いをしているだろうお母さんに、どんな言葉をかけたらいいのかわからなかった。

 

石を投げた子に、「あなたがしたことはいけないことなんだよ」って、その子が理解できるように説明してやることができなかった。

 

私が、お家の方にごめんなさいって言うことではない。

下校中のことで、学校に監督責任があるわけじゃないから。

 

でも、すみませんって思うのはなんでなんだろう。

 

「石を投げたのは、障害がある子だったんです」って伝えると、相手が何とも言えない表情をした。

お母さんに「大変ですね」って声をかけた。

 

そう、大変なんだと思う。「大変ですね」って言った言葉に、何の悪意もなかった。

 

だけど、その言葉を聞いたお母さんはどんな気持ちだったんだろうと思うと辛い。ものすごく。

その言葉は、きっと同情に聞こえるから。

 

障害がある子を育てるのは大変ですよねって。

 

だけど、当事者ではない人から向けられたその言葉は、まるで自分たちとあなたは違うからね、って違いを強調されるように聞こえる。

 

言葉を選ぶって難しい。

その場にふさわしくて、相手を傷つけずによりそう言葉って、すごく難しい。

 

いっそ、言葉なんてかけずに、その場に一緒にいることが大事だったのかもしれない。

 

「障害があるんだから、わからないんだから、何をしてもいいでしょ」なんていう開き直りはしない方がいいと思う。

そんなことしたら、障害があることが「普通の人」と違うっていうのを、自分たちで線引きして、歩み寄りやお互いを理解して暮らしていくことを拒否しているように感じるから。

 

だけど、もし、今回石を投げられたお家の人が、

「障害があっても関係ない、弁償だ!二度とうちの前を通るな!!」なんて冷たい対応をしていたら、

きっとお家の人は「そんなこと言われても、わからないんだから仕方ないでしょ…!!」っていう発想に至ってしまうかもしれない。

 

そう考えたら、やっぱり障害がある人たちが地域で暮らしていくには、本人の育ちも大事だけど周囲の理解も必要なんだと感じた。

 

共生社会の実現。

 

すごく理想的な言葉なんだけど、その実現をしていくためには地道な日々の努力がいる。

 

中学校で働いている1人として、これからの社会を作っていく子どもたちに伝えていくべきことがたくさんある。

 

まだ、何も伝えられていない。

 

自分にできることを1つずつ。

 

無力感を乗り越えて、1つずつやるしかないと思った。

 

がんばろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2:6:2はどこでも使える

2:6:2の法則ってのを聞いた。

 

職場で何かを提案した時に、

2割は積極的に協力してくれて、2割はどう頑張っても反対してきて、残りの6割はどっちでもいいやと思ってる。

 

だから、何か組織で新しいことをしようと思ったら、

仲間になってくれる2割と、どっちにも流れそうな6割を味方にして、

「まぁ、頑張ってやってみようか」っていう雰囲気を作るのが大事だと。

 

これはよく教育現場や人間関係でも言われてて、

2割は友好的、2割は敵対的、6割はどっちにも流れる。

 

クラス経営でいえば、何となく「居心地いいわ〜」って雰囲気を8割の子が出してたら、

2割の子が「この先生合わないわ」とか「このクラスいまいち!」って思っててもなんとかなる。

人間関係でいえば、どう頑張っても合わない人はいるから、そういう人とは無理して付き合わなくていいよって考えたらいい。

 

ここまでは良く聞くし、私も実践してきた。

今回は、プラスして「保護者」対応にもこの考えで臨んだら気持ちが楽になるんじゃないかって思った。

 

最近、「この保護者とは意見が全く合わない」って人もいて、でも、そんな保護者でも教師として、プロとして、

うまく付き合っていくのが大事かもとか、でも、無駄な労力かけんのいやだなとか思ったり、

 

とにかくモヤモヤして、どうしよう…って悩みのタネだった。

 

だけど、この2:6:2の法則でいえば、

いくら私にスキルがついても、人間的に大きく成長しても、どう頑張っても相容れない人もいるだろうと。

 

だから、「この人とは考え方がどうしても交わらないわ。」と思った人とは、

他の人間関係と同じで適度な距離感を保って、お互いがストレスなく過ごせるようにしたらいいという結論に達した。

 

「みんな仲良くしましょう」は目指さず、「何となく多数に信頼されてる」ことを目指そうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〈対話〉を意識した授業

先日、勤務する中学校で研究報告会があった。

 

令和2年4月から完全実施になる中学校学習指導要領の中で重視されている「主体的・対話的で深い学び」に絡めて研究テーマの設定や報告会の枠組みが決まっていた。

 

今回研究報告会を終えてみて、〈対話〉ってみんなわかったようになって適当に使ってるけど、

そもそも「主体的・対話的で深い学び」の中の〈対話〉って何なのさ、

って議論は全く学校内でなされていなかったのが問題点だと思った。

 

「何となく、これって〈対話〉じゃね!?」くらいの軽くて適当で曖昧な認識のもとに授業が行われて、

研究という名の下に適当なアンケートが作られて、生徒に力がついたように思い込もうとしている…という何とも残念な、

そして労力だけがかかった会が催されたように思う。

 

生徒同士がわいわいしゃべってたら〈対話〉、ではないと思う。

 

〈対話〉って、私のイメージではお互いの本音をぶつけ合うことで、お互いの中に何かしらの「変容」が生じる活動。

 

だから、「発表したらOK」でもないし、「発言できるやつがすごい」のでもない。

 

たしかに、大勢の前で発言できるのは〈対話〉のきっかけになる可能性がある。

 

発信された意見にエネルギーがあって、思いがこもっていて、

聴いている人の心を打つような内容であれば、そこに〈対話〉は成立する。

 

じゃあ、〈対話〉ができる授業はどうしたらできるかって考えたら、

①自分の意見を安心して発言できる場であること

②題材に力があること  かなと。

 

 

あ、②の題材に力があることだけでも〈対話〉的な学びは成立する気もしてきた。

だって、読書とか動画の視聴でも心を動かされて自分の意見や考えが変わることあるし。

 

アクティブラーニングが流行った時にいわれた

「活動あって学びなし」だかなんだかっていう言葉と一緒で、

 

〈対話〉させているようで表層的な話しかしてないっていう状況が日本各地で生まれてる気がする。

 

なんとなく〈対話〉ってのを重視した弊害で、

本来なら基礎学力の定着に当てられていた時間が削られたり、無理やり話し合い活動させられて

肩身の狭い思いをしている子がいませんように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結婚、出産、、、

30歳になって半年が経った。

 

昨日は友達の結婚式。

 

最近、周りの結婚、出産が本当にラッシュ。

 

少し前までは、結婚はあと3年くらい先でいいやって思ったり、

 

出産も33〜35くらいでできたらいいかと思ったり、

 

もし、自分がなかなか子どもを授かれなかった時には、

 

養子をもらったりするなんてこともあってもいいかもなんて軽い気持ちだった。

 

だけど、この前健康診断であんまりいい数値がでなくて、

 

これじゃあ将来健康な子どもを産めないかもしれないって思った時に、

 

「あ、産むなら早い方がいいや」って直感で思ったんだよね。

 

昨日結婚した子は、身体の関係で「子どもを産むなら30代前半で…」って決意をして、

 

周りの人に紹介してもらった人と結婚するに至った。

 

昨日の表情はものすごく幸せそうで、穏やかで、素直に「いいな」って思った。

 

今の生活に満足していないわけじゃないくて、

 

むしろある程度満足して楽しく生活できてるからこそ、

 

「早く結婚、出産しなきゃ!!」って思わないんだよね。

 

あぁ。。。

 

人生迷いの連続だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「傷つきました」というパワーワード

「あなたの言っていることは正しいと思う。」

 

「でも、私はそれを言われて悲しかった」「傷ついた」

 

…自分は散々言いたいことを言っておいて、要求を述べておいて、

 

こちらが反論したら

 

「傷ついた」と言っていきなり被害者側に回る。

 

それってずるいんじゃないか??

 

こちらもあなたの話に全く共感できなくて、意味がわからん話に延々と付き合わされて、

 

私は「イライラ」しました。

 

「イライラ」した気持ちと「傷ついた」気持ちを並べた時に、

 

不思議と「傷ついた」と言った方が「かわいそう」で「弱い」立場だと捉えられるから、

 

なんだがイライライして反論したこちらがなぜが悪者扱いされる。

 

冗談じゃない。

 

そちらの要求に「意味わからん…」と思いながらいつも対応しているこっちだって、

 

演じようと思えば「傷ついた」「かわいそうな」立場に転じられますよ?

 

でも、お互いが被害者ぶっても何も生まれない。

 

いい大人なので、そうは思えないのか。

 

残念な人が多くて悲しくなる。