自分の意見を主張することはKYなのか
コロナの流行は、リトマス紙みたい。
「なんとなく空気に流されている人」と、「確かな情報に基づいて行動できる人」。
違いがはっきりしてる。
緊急事態宣言が出されたのに、なぜ家庭訪問に行く必要があるのか。
緊急事態宣言の目的は、人との接触を極力減らすことなのに、わざわざ会いにいったら逆効果。
出勤だって、特段するべきことがないのだから、するべきでない。
暇つぶしのように、周りに人がいる安心感のために、職員室にいる(ように見える)人たち。
人との距離なんて気にせず、普通に不要不急な会話をダラダラしている。
来週には、30人もの教師がわざわざ集まって職員会議がある。
なぜこの状況で、普段の慣習を変えられないのか。
テレビ会議を提案した。
結局、体育館での会議になった。
それはいい。
とりあえず、狭い部屋での感染のリスクはちょっと減ったから。
ただ、提案に対して、「あまり先行して、目立った動きをしない方がいい」と言われたのに腹が立つ。
そんな動きをよく思わない人がいるからと。
それ・・・?理由はそんな人間関係のこと・・・?
違うやん。
今すべきは、コロナの感染拡大を少しでも遅らせること。
医療崩壊を起こさないように、1人1人が接触を最小限にするという、自分にできることを一生懸命することではないのか。
きっと、自分の学校は大丈夫、と、根拠のない自信があるんでしょう。
だれか、身の回りの大事な人たちが感染したとき、やっと気づくんでしょう。
「気をつけないと、発言しにくくなる」というありがたい忠告をいただいた。
自分の意見を主張して、何がいけないのだろう。
命を守るために、おかしいと思うことに声をあげることが、なぜ非難されるのか。
「今は非常時なので、必要だと思うことを発言している。それで疎ましく思われても、1人でも考えが変わってくれたらそれでいい」と
言い返した。
多分伝わっていない。
合理的な話より、なんとなくの空気が重んじられる。
まぁまぁ、大人になりなよって、みんなで仲良くやろうよって言われる。
その「大人」って、空気を読んで、なぁなぁに、でも、陰で文句を言いながら、うまくやっていくことでしょうか。
そんな「大人」に、私はなりたくない。憧れない。
多少反発を食らおうと、あいつ、面倒くさいなと思われようと、
私は自分の思ったことを、正しいと思えることを表現していく。
もう、コロナより前には戻れない。
環境も、私の心も。