日常つぶやきブログ

誰かの役にたつわけでもなく、何かの知識が得られるわけでもありません。自分が日々感じたこと、考えたことをまとめる場所、記録しておく場所としてブログを始めました。

【映画】それでも夜は明ける (12YEARA A SLAVE)

最近、黒人差別に関するニュースがたくさん流れてくる。

 

自分の知識のなさに悲しくなって、Amazon  primeを検索してみた映画。

 

それでも夜は明ける

http://yo-akeru.gaga.ne.jp/

 

アメリカで起こった実際の事件を映画にしている。

 

楽家として生活を送っていた主人公(ソロモン・ノーサップ)が、

 

ある日突然誘拐され、アメリカの南部へ奴隷として売られてしまう。

 

1841年に誘拐された主人公は、そこから12年間奴隷としての人生を送り、

 

奴隷から解放された後にその時の記録を本として出版したのが原作らしい。

 

始終、見ていて心がざわざわした。

 

辛かった。

 

至る所に、差別が散りばめられていた。

 

これが、実話を基にしているのが信じられないほどに。

 

奴隷を買った白人は、奴隷を「財産」だと主張する。

 

同じ人間だとは思っていない人もいた。

 

レイプもあった。

 

後から調べたことだけど、

 

南部の黒人の多くに、白人の血が混じっているらしい。

 

望まない妊娠がたくさんあったんだろうと思うと、心が重くなる。

 

思い通りに動かなければ、ムチ打ち。

 

殺すことに対してもなんとも思わない。

 

奴隷制度に疑問を持つ人もいたみたい。

 

でも、結局行動には至ってない。

 

それって、何も変わらない。

 

奴隷解放宣言が出されて、合衆国憲法が修正されて、もう150年も経っている。

 

だけど、今もなお、黒人に対する差別は続いている。

 

怒りがわいてくる。

 

差別する権利なんて、誰にもない。

 

差別されない権利は、みんなが平等に持っている。

 

おかしいと思ったことは、おかしいと声を上げる。

 

差別はダメだと、言い続ける。

 

差別を受けている人たちだけが戦う社会ではいけないと思う。

 

「あなた、関係ないじゃん」って言われたとしても、

 

私も一緒に戦わなきゃって思った。

 

【映画】こんな夜更けにバナナかよ

前から気になっていたこの映画を見た。

 

【こんな夜更けにバナナかよ】

https://bananakayo.jp

 

実話を基にした映画で、

 

主人公は大泉洋さんが演じる鹿野靖明さん、34歳。

 

筋ジストロフィーを患っていて、体で動かせるのは首と手だけ。

 

24時間誰かの介助がないと生きていけない体だけど、

 

病院の中で生きるのではなく、

 

地域の中で自立生活を送ることを選んだ人。

 

たくさんのボランティアの人たちに囲まれて生活をしている。

 

タイトルの【こんな夜更けにバナナかよ】っていうのは、

 

映画の初めの方のシーンに出てくるエピソードで、

 

夜泊まりがけで鹿野さんの世話をするボランティアに対して、

 

「バナナ食べたい!買ってきて!」と言い放つ。

 

ボランティアを始めたてだった美咲ちゃん(高畑充希さん)は、

 

そんな鹿野さんに「わがままだ」と伝える。

 

 

 

・・・まぁここから色々とストーリーは続いていくんだけど、

 

ボランティアの人に対して、「わがまま」をいう鹿野さんの姿に、

 

私もちょっと反感を持った。

 

ありがとうの気持ちはないの!?

 

気遣いは!?

 

申し訳ないとか思わない!?

 

だけど、途中で鹿野さんがこういった。(要約)

 

「なんで遠慮しなくちゃいけないの?ここ、俺んちだよ?」

 

「自分の家の中で遠慮する人いる?」

 

あぁー、確かにって思っちゃった。

 

私は自分が好きな時に、好きなものを食べられる。

 

好きな動きができる。

 

好きなところに出かけられる。

 

でも、障害があって、自分の体を自分の力では動かせない人は、

 

そんな当たり前の自由が制限されている。

 

本人がのぞめば、その当たり前を保証するのが、大事なんだと思う。

 

でも、それって全然簡単なことじゃない。

 

実際、ボランティアはなかなか集まらないし、

 

本当なら国が福祉政策としてきちんとお金を出せたらいいんだろうけど、

 

そんな状況じゃなさそう。

 

普段、生徒と接する時に、「ありがとう」や「ごめんなさい」、

 

普段のあいさつを大事にしなさいって言ってる。

 

これって、将来就職したり、生活していて困った時に、

 

周りの人との関係が良好な方が支援を受けやすいから。

 

でも、これって、支援する側にとって、「支援しやすい人でいなさい」ってことなんだよね。

 

もちろん、障害がない人だって、

 

お互いに気遣いをしあって暮らしている。

 

乱暴でわがままな人よりは、優しい周りのために行動できる人が好かれる。

 

けど、違いは、「強い」人は、ある程度自分1人で、生きていけること。

 

「強い」人は、付き合う人を自分で選択できる。

 

一方で、障害がある人は社会的に「弱い」立場にある。

 

いろんな人に助けてもらわなければ、生きていくのが難しい。

 

選択肢が少ない。

 

本当に、それでいいのかな、と思った。

 

人を傷つけることは、障害があろうとなかろうと、ダメなこと。

 

だけど、自分の好きな時に好きなものを食べる、好きなことをするって、

 

誰にでも平等に与えられた権利なんじゃないかなと思った。

起点になる

コロナが流行って、世の中の動きが変わった。

 

最近は、私の予定表にはたくさんのオンラインイベントが詰まっている。

 

特別支援に関する情報交換のグループ。

 

オンライン授業の可能性を探るグループ。

 

本屋さんのイベント。

 

指導方法に関するセミナー。

 

どれも、主催をしてくれている人たちの行動力に感謝するものばかりだ。

 

自分が起点となって行動し、同じ興味関心を持つ人たちの情報共有の場、学びの場を作り出すのは、

 

素晴らしい取り組みだと思う。

 

今回、この休校期間中に自分なりに行動を起こしてみて、

 

行動をするというのは、批判の矢面に立つことなのだと実感した。

 

良かれと思って提案したことには、賛同者もいるけれど、

 

必ず反対意見も出る。

 

それに対して、「環境が悪い」とか「私の人望が…」

 

とかいろいろ思って、イライラしたし、転職してやるーーー!!とか思ったりしたけど、

 

いろんな場で話を聞いたり感想を述べたりしてみたら、

 

周りからは上手くいっているように見える職場も

 

やっぱり同じような悩みは抱えていて、

 

行動を起こす人には「この人めっちゃすごい人やん!!!」と思う人にも

 

多少の風当たりはあるようだった。

 

その風当たりにくじけずに、行動を止めないでいるには、

 

「仲間」、「同志」の存在が大事なのではないかと思った。

 

「私だけではない」という安心感が、自分を支えてくれると知った。

 

だから、自分が起点となって行動すること、

 

その行動を共にできる仲間を見つけることが大事。

 

仲間を見つけるのに、ネットって本当に素晴らしいなと思った。

 

日本全国、いろんな人と繋がれる。

 

自分からアクションを起こせば、いろんなことができる。

 

次は、繋がって終わりではなく、自分も何かしていきたい。

 

起点になって、周りを巻き込む。

 

どこまでできるかわからないけれど、やってみよう。

 

頭の中を公開する

ある生徒の指導で、なかなか自分が何を意図して保護者や本人と関わっているのかが担任間で共有できなかった。

 

私が目指すのは、「生徒が伸びる」こと。

 

それは、短期的に「大人のいうことを聞く」とか、「数学の点数が上がる」とか、そういう表面上のことではない。

 

扱いやすい、指示待ちの人間は育てたくないし、テストの点数上がればOK的なのも違う気がする。

 

じゃあ、何を持って「生徒が伸びる」っていうかっていうと、

 

私の中では「自分でいいこと悪いことの判断をして、自分で行動するできるようになること」。

 

生徒指導提要を読んで、自己指導能力って言葉を知った時、「これや!!」と感銘を受けたのを覚えている。

 

だから、親にやいやい言われてもぐうたら生活してるとか、遅刻とかしてる生徒に対して、

 

「闇雲に怒って従わせる」とか、「罰則を作ってやらせる」っていうのはあまりやりたくない。

 

まあ、保護者のニーズとかもあるから、そういう対応をせざるを得ない時もあるんだけど、

 

そんな時も、極力生徒を追い詰めず、パフォーマンスとしてやるくらいに留めている。

 

と、自分の中では思っているから、

 

生徒が課題出さないとか、遅刻してくるとかしたときに、ある一定怒ってダメなときは違う対応に切り替える。

 

小さなことでもいいから、本人の意志で行動できるように話をする。

 

そんで、どれだけ不完全でも、本人が一歩を踏み出せたなら「よし」とする…。

 

そういうモードチェンジの感じって、私の中では直感なんだけど、

 

今は「これや!!」っていう自信というか、確固たる筋道がある。

 

だけど、それって、なかなか言語化が難しくて、周りにうまく伝わりにくかったりもする。

 

自分の中では腑に落ちていて、当たり前やと思っている対応が、「甘い」って思われたりする。

 

可能であれば、自分の頭の中をすっかり相手にさらけ出して、

 

「自己指導能力の育成を私は目指していて、昨日までの対応は保護者のニーズもあるしこうしてたんだけど、

 

今日の出来事に対しては怒ったり型にはめたりするよりも、もっと根本的な話をしたらいいと思って

 

こういう対応をしたんです」って言えたらいいのだけど、

 

ムーーーーーーーーーーー!

 

私のコミュニケーション能力ではとても難しい。

 

大人同士って難しい。

 

 

 

 

頑張る前には、頑張らないのがコツ?

「たくさん息を吸うには、その前にきちんと息を吐ききるのがポイント」というのを読んで、

 

お、それは身体的なことだけでなく、精神的なことにも通じるのではないかと思いついた。

 

「頑張れ」と気軽にいうのだけど、

 

頑張る前には、思いっきり「頑張らない」という行為が大事なのではないか。

 

「頑張らない」時間があることで、エネルギーが自然とたまって、

 

息を吐ききった後に自然と息が吸えるように、

 

ふとしたタイミングで自然と頑張れるのではないか。

 

だから、目の前の子どもがだらけていても、それは辛抱して見守ってやった方がいい。

 

無理やり頑張らせようとしても、本人にとってそのタイミングでないなら、

 

気持ちよく、自然な頑張りは見込めない。

 

それから、頑張り続けると何でしんどいかって、

 

それは、浅い呼吸をせわしなく、バタバタ繰り返しているんだけど、

 

実はあまり酸素を取り込めてない状態に陥ってるからだと思う。

 

だから、頑張り続けるのは体にも心にも良くないし、

 

頑張り続けるのを強要するのも良くない。

 

自分自身、頑張れる時と、思いっきりだらける時の差があるけど、

 

社会生活をそれなりに送ることができている。

 

いつも頑張る必要はないのよ、と、子どもたちにも、周りの大人にも伝えていきたい。

勝手に傷付き、勝手に怒る人たち

何の攻撃もこちらがしていないのに、勝手に「傷付いた!」と騒ぎ立てたり、

 

「あいつらは考えが足りない!!」と勝手に怒り狂っている人がいる。

 

こちらがしているのは、自分のしたい企画があって、

 

その目的、メリット、懸念事項、これから必要となってくるであろうことを、

 

筋道を立てて話をしているだけ。

 

だけど、何だかよくわからないのだけど、わめき散らしてこちらを妨害してくる人がいる。

 

推察するに、そのわけわからんことをわめき散らしている人の根底にあるのは、

 

「恐れ」の感情。

 

①新しいことを始めることへの恐怖。

→見通しが持てないのは不安。失敗したら責められるのではないか。(ちなみに当の本人は別に批判されるような立ち位置にはいない。はっきり言って部外者なんだけど、組織のどこかしらに対して、何らかの批判があっただけで、なぜか自分も責められたと勘違いする。)

 

②自分の知らないことが進行していくことで、職場での自分の立場が弱くなるかもという恐れ。

→普段、何となく声のデカさと態度のデカさでマウントを取っているつもりだが、実際はそんなに支配できていないと心のどこかでは気がついているので、自分が口を出せない(わからない)企画が進んでいくことで、ますます口を出せなくなるのではないか、自分の支配が及ばなくなるのではないかと感じている。

 

③自分が相手より劣っているのかも。。。と感じ、自尊心が脅かされることへの恐れ。

→自尊心が高くないから、普段から「あいつのが私よりできるんちゃう!?私、負けてるんちゃう!?」という訳のわからない争いを心の中で繰り広げている。負けたくない相手が活躍をしていると、相対的に自分が負けている気分になり、結果的に自分の自尊心を守るために、自分を高めるのではなくて相手を引き摺り下ろすことに躍起になる。

 

と、偉そうに分析をしてみたのだけど、

 

最終的に行き着くのは、「それって、私の問題ではない。」という結論。

 

対保護者の時にも感じたんだけど、

 

こちらの意見を述べた時に、それを「傷付いた」とか「腹が立つ」って受け取るのは

 

受け手側の問題なのね。

 

「〇〇という方法がいいと思います。」

 

と、意見を述べた時に、そこにあるのは「その方法がいいと思う」という、ただそれだけ。

 

でも、よくあるのは、その言葉の裏を(勝手に)一生懸命読み取って、

 

「え、それって私の方法が間違ってるって言いたいの!?」「え、私、責められてる!?」

 

「こいつ、偉そうなこと言いやがって。」などと(勝手に)傷付いたり、怒ったりしている。

 

そりゃね、そういう心の動きは私も経験があるし、相手との関係が十分に築けていない場合には

 

そんな感情のすれ違いは沢山起こりえる。

 

しかし、しかしだね。

 

そんなこともあるから、沸き立ってくる怒りや悲しみの感情を一旦脇に置いて、

 

「たしかにその方法もありね」、と思えるのが大人なんじゃないかと思う。

 

そして、怒りや悲しみの感情は、きっと自分の弱い部分(コンプレックス)に関係しているから、

 

その感情を鏡にしながら、自分の心に向き合うことが大事。

 

と、自分では思っているので、

 

勝手に傷付いたり怒ったりしている人に対しては、

 

自分の弱さを私にぶつけないでくれよ、いい大人なんだから、と感じる。

 

もちろん、誰にでも弱さはあるし、弱さを抱えながらみんな生きていると思うから、

 

感情のぶつかり合いはどこでも起きる。

 

そうなんだけども、弱さに向き合わずに、ただただ傷つきと怒りを振りかざしている人には、

 

おいおい、それはちょっと違うだろ、と言いたくなる。

 

あなたの悲しみや怒りの感情の源は、私の態度ではなくて、あなたの心の弱さですよと。

 

ただ、私の場合は「お前が弱いだけだろ。」という威圧感を醸し出したり、

 

ひどい時には論理的な話を続けて、相手が反論できないように力でねじ伏せようとしてしまうから、

 

北風と太陽の北風のようになって、相手の殻を固くしてしまうのだと思う。

 

太陽のように、その人のことを包み込んで、

 

自尊心を満たしていくことが必要なのかも・・・と

 

漠然と感じてはいるんだけど、今のところ、

 

そこまで配慮する気もないし、何だかなぁと思う。

 

組織の中での振る舞いは、なかなか難しい。

 

 

 

 

【映画】精神0

想田和弘監督の「精神0」という映画を見た。

 

https://www.seishin0.com

 

82歳の精神科医の先生が、突然引退をして、認知症の奥さんと生活をする話。

 

観ようと思ったきっかけは、これ。

 

http://www.temporary-cinema.jp

 

仮説の映画館だそうだ。

 

コロナの影響で営業ができない映画館をどうにかできないかということで

 

急遽立ち上がった企画。

 

このサイトから映画を見ると、映画館にもお金が入る仕組みらしい。

 

近所の映画館も参加していて、観ることを決意。

 

私は最近まであまり映画を観ていなかったのだけど、

 

休校期間で時間があったのもあって、「映画って、おもしろ!!」と気付き、

 

同時に、本にも大手出版社と小さな出版社があるのと同じように、

 

大型書店と個人経営の書店があるように、

 

映画館にも大きな映画館と小さな映画館があることを知った。

 

(本当に、世間には知らないことが溢れている。)

 

小さな映画館が、大きな映画館では上映されないけれど、

 

素晴らしい、熱いメッセージが込められた映画を上映するかけがえのない場所なのだと知った。

 

その映画館が、ピンチなのだと。。。

 

となれば、今は映画館に少しでもお金を落とすのが私の使命なのじゃ!!

 

と、何だか半ば義務感に駆られて観賞に至った。

 

1,800円。

 

家のテレビに映し出しての鑑賞だし、

 

月額500円のAmazonプライムで映画を定額見放題!やっほーい!としている身からすれば、

 

正直ちょっとお高めね、と思う気もあったけど、

 

もういっそこれは寄付だ、くらいの気持ちでポチっとお金を払う。

 

正直、あまり下調べもなく「観察映画」という言葉だけを頼りに見始めたものだから、

 

初めは全然わけがわからなかった。

 

先生が精神科で患者さんと話をしている映像がいきなり写し出されて、

 

誰だ、この女性は・・・と思っていたら、その人が先生の奥さんだとなんとなくわかってきて、

 

頭が???となりながら、何なら手にネイルを塗りながら、片手間に観賞してたくらい。

 

なんだけど、なんか途中からいろんなことが頭に浮かび出す。

 

歳を取るって、こんなに1つのことに時間がかかるようになるのか、とか。

 

なんでこの人は、こんなに穏やかな表情で、手をずっとさすっているんだろう、とか。

 

そうよね、誰でもいいから、自分の悩みや考えを遠慮なく話せる相手って必要よね、とか。

 

私が今過ごしている時間の流れと、この人たちが過ごしている時間の流れは全然違うのかしら、とか。

 

それから、自分のひいばあちゃんとかおじいちゃんのことが思い浮かんできた。

 

私は大学から実家を離れたから、ひいばあちゃんやおじいちゃんが元気だった頃の姿しか見てなくて、

 

だんだん老いて、身体が思うように動かなくなって、死に向かっていく過程にはあまり触れずに来た。

 

おじいちゃんのお見舞いには行った。

 

その時、病院に入った時に感じたぞくっとした感覚は忘れられない。

 

生きている人がいるのに、確実に灰色のような、色あせたクリーム色のような、色のない世界だった。

 

自分が普段接している、エネルギーに満ちあふれた子供たちとは全然違った雰囲気。

 

あぁ、これが病院かと思った。

 

老いを、病を受け入れ、死の準備をする場所なのかと。

 

すごく、その場所から、逃げたくなった。

 

老いや病は、私にとって目を背けたいことだった。

 

もしかしたら、都会のお金持ちは、もっとキラキラした病院で一生を終えるのかもしれないけど。

 

でも、何だかあの重苦しい病院に行ったら、世の中の一定数の人たちが、

 

「自宅で看取りたい」という気持ちになるのがちょっとわかった気がした。

 

自分が、そしてこれから自分の親が年老いていった時、

 

私はどうしたらいいのだろうと思った。

 

今までそこにあるのは知っているけれど、目を向けていなかった世界がこの映画には広がっていた。

 

多分、この映画を見て感じることは人それぞれで、

 

その人のそれまでの人生によって、感じるものが違ってくるんだと思う。

 

Twitterでしか知らなかった想田監督のことがもっと知りたくなって、

 

夜中に想田監督の本を買った。

 

https://mishimasha.com/books/kansatsu.html

 

こんな時、やっぱりミシマ社さん、好きですってなる。

 

私の「好き」「気になる」を網羅してくれてる感じがすごい!!

 

多分、しばらくは積読本になる気がするんだけど、手元に置いておこうと思う。

 

「精神0」、観る人によっていろんな気付きがある映画。

 

映画館を救おう、という気持ちがある人、ちょっと気になる、っていう人に

 

ぜひ見て欲しい。